学生時代、世の中でわりとメジャーな「理想像」に対して「こうじゃないと生きてる価値がない」的に思っていた時期があります。
憧れとのギャップで暗くなる日々
詳細なイメージの説明は難しいのですが、マンガ作品や演劇作品などで見た「女神様的なキャラの綺麗さ」が「すごくいいなあ」って思って、そのものになれないとダメなんじゃないかと思って、次の瞬間に「あまりに遠すぎて嫌だ」となる。
「憧れ→ギャップの認識→絶望」
のループで暗く暗く毎日を過ごしていた時期があります。
リアルのリストカットまではしていませんのでそこまですごくきつかったわけではないと思いますが、平常運転で暗い気分に浸っていました。
憧れと実態のギャップ問題
「あれになりたい」的なものがわりと明確にあると、自分のなかで常に大ゲンカがあってメンドクサイ、みたいな状態になることがあります。
理性が「目標として無理」と告げきて、感性は「絶対あれがいいから」と告げてくるような状態です。
これって、「その理想は遠すぎない?」っていう願い事を真面目にかかえたことがある人なら、よくある話だと思っています。
ただ、この時期がきつかった一番の理由は「理想と現実のギャップ」というだけでなくて、
・他人が作った正しさ (例えばネガティブなことは口にしないみたいな)
に振り回されていたからというのも割とあったと思います。
正しさの基準を他人にとられっぱなしだとつらい
「これが正しい」とか「こうあるべき」みたいなものの基準を他人にとられたままだときつくなると私は思ってます。
例えば「明るく元気で、誰とでもそこそこ親しい風な会話ができる」みたいな理想像があったとして、こういう「正しさ」を強制されると精神的に病みやすくなると思います。
誰もが「ノリと共感だけのおしゃべり」や「バラエティ番組の人のような毒にも薬にもならないコメント」が得意なわけではないからです。(スキルとしてはあると便利だと思いますが)
誰かと騒ぐよりも、1人で遊ぶほうが回復する人もいるからです。(私はわりとこっち)
「ポジティブであるべき」みたいな正しさもいい例で、あれを強い圧で言われると私は不快感を感じることのほうが多いです。
もちろん、「話題が親戚と取引先の悪口しかない人」と仲間になりたいとは思いません。それはそうだけど、「批判や悪口は常にNG」みたいになってしまうとそれはそれでつまらないと思います。
宗教や政治の話題も必要では?
また、「現行憲法はGHQ草案ほとんど直訳だからクソでは?」「念仏唱えれば極楽に行けるって教え、一般向けの入口としてはいいけど真面目に興味がある人向けには適さないことも多いのでは?」とか、政治宗教の話ができる場所もあったほうがよいと思います。
人前で口にすることが模範解答的な印象のことばかりになるのは芸能人や官僚でなくてもある程度は仕方ないと思います。有名人でなくてもテロリストからの敵意は避けたいからです。
ただ、仲間内で言うことまで「あたりさわりのないこと以外は禁止」みたいにしてしまうとそれはそれでおかしなことになると思います。あたりさわりのない話題以外を常に禁止していたら、「実際的な話ができる場所」がなくなってしまうからです。
世の中的な正しさと、自分の正しさが、違う場合もあってよい
大事なのは「世の中的にいま流行ってる正しさ」みたいなものはそれはそれで認識した上で、そういうものは「諸行無常(せかいはつねにうつりかわる)」という前提で、「自分の正しさ」は自分で選ぶということです。
学校の正しさとか会社の正しさとか業界の正しさとか、そういうものは「特殊な場面に限定された正しさだ」として認識しておくことが大事だと思います。
ある宗教の常識は別の宗教では非常識ですし、この国の常識は別の国の非常識です。人間の作る集団の常識なんてみんな違いますので。大麻1つとっても合法にしてるとこと非合法にしてるとことあります。(これも世の中的な正しいとされることは可変であることのよい例です)
そのうえで「うちはこれが正しいと思う」というものを自分で選ぶことが大事だと私は思います。
